あの日のこと。
事故当日、
癌の手術直後でガンセンターに入院していた弟を
父の元へ連れてきてくれた
私の大事な友人が、
あの日のことを文にしてくれました。
お読み頂けると嬉しく思います。
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あの日、いつも電話の前にはLINEを入れてくる杏梨から突然の電話がありました。
たまたまその日、私は休みで、家に居たのですぐに応答しました。
今でも忘れられません。
呑気に、
杏梨、どうしたのー?と私が言った数秒あと、杏梨の震える声と、嗚咽が聞こえました。
ゆうちゃん。どうしよう。
パパが死んじゃった。
震えながら、途切れながら、泣きながら言ってきた杏梨の声を今でも鮮明に覚えています。
パパが事故に遭う少し前から、私は母親(看護師)の関係で杏梨の弟ゆうりの癌について、相談を受けていました。
とても若い年齢での発症で、家族も大変だと知りなにか出来ないか試していたのです。
その日の電話も、弟の検査結果などを知らせる電話かと思ったのです。
でも大きく違いました。
私も電話口で涙が止まらなくなるほど、突然のことだったのです。
電話を受け、居てもたってもいられず、すぐにでも家を飛び出す所でしたが
手術を前日に終えたばかりの弟、ゆうりが、どうしてもパパのところに行きたがっていると、杏梨から聞きました。
私は母親に相談し、事態が事態なため、病院から退院許可を貰うように杏梨に伝え、すぐにゆうりの退院許可はおりました。
病院も、術後安静にしていないといけないことは分かった上での判断だったと思います。
私は電話を受けて、すぐにがんセンターにゆうりを迎えに行きました。
家族は皆、パパの居る、順天堂に居た為、家からがんセンターまで近かった私が直ぐに迎えに行く!と伝えたのです。
昔から何度も杏梨からゆうりの話を聞いてきたのに、初めてちゃんと会うのがこんな形になるなんて思わなく、私はぎこちなく、掛ける言葉も見つからずに居たと思います。
只、とにかく無事に病院に連れて行きたい一心だった事は覚えています。
私は慎重に運転をして、家族のいる順天堂に向かいました。
ゆうりは、ずっとずっと嗚咽を我慢して鼻をすすっていたのを覚えています。
こんな時なのに私に
すみません、ありがとうございます。と、丁寧に言っていたのが本当に印象的でした。
私とゆうりが病院につき、杏梨の旦那さんが入口まで迎えに来て
私とゆうりが家族のいる、
パパのいる病室の前までたどり着いたとき
ママや杏梨、妹のまりんやいっちゃんと顔を見合わせた瞬間にゆうりが膝から崩れ落ちて泣きじゃくった姿が忘れられません。
俺のせいだ、と、なにも悪く無いはずの自分を責めていたことも忘れられません。
私も涙が止まらず、でもどこかで信じられないで居た気がします。
杏梨は幼子をかかえて、泣きながら哀しみと対峙していました。
しばらく、時間が経ちました。
その時私は警察が、パパが無理な右折をしようとしたと。
それが原因の事故だと言われたと、杏梨から聞きました。
その時から、家族はなんでパパが右折を?と、混乱した中でも疑問を口に出していました。
いつもの通勤だったはずなのに、必ず真っ直ぐ帰るパパなのにと。
泣きじゃくりながら疑問を唱えていました。
1時間ほど経ってから、やっとゆうりはパパに会える事になりました。
その光景も、今でも目に焼き付いています。
パパを見た瞬間のゆうりの、
言葉にはできません。
受け入れられない現実がそこにはあったのですから
表現する言葉がありません。
私自身は、パパに会う勇気が、正直ありませんでした。
元気に私の話で爆笑してくれた、優しくて穏やかなパパ
杏梨から聞いていた最高のパパ
かっこよくて、無口でも優しさが伝わってくるようなパパが。
こんな若さで、こんなに早く、突然亡くなったなんてとても、信じられず
パパにはお久しぶりです、と挨拶をしたかったくらいの私でも、その現実を受け入れることが出来なかったからです。
頭の中で、少しだけ途轍もなく悲しい時間が経った気します。
待合室で涙が止まらない私に、ママが
ゆうちゃんも良かったらパパに会ってあげて。
と言ってくれました。
こんな時なのに泣きながら、でもとても優しい笑顔でママは言いました。
わたしは恐る恐る、病室に入りました。
家族と同じとは恐れ多くて言えませんが、こんなのは、こんな現実は、嘘だと思いたかった。
病室には
眠っているような、でも、顔には傷があり無念そうにも見えるパパが、冷たくなったパパが、いました。
鼻水が垂れるのも気にならないくらい、涙が止まりませんでした。
家族が体をさすって。頬を撫でて。パパ起きてって、泣いている病室は
わたしが人生で経験した1番悲しい場所でした。
事実、パパはいつも通りの道を、交通ルールを守り通っていただけだった。
という事は、
遺族が辛くて悲しくて何も手につかないほどの時からずっと、頑張って頑張って踏ん張って
真実を求め続け、発信し続け、得た真実です。
心無い人の発言や、心が折れそうになることがきっと私が知るよりも沢山あったはずです。
それでも遺族はずっと、行動し続けているのです。
月命日に、私は何度か事故現場に花やパパの好きだったという赤いきつねやコーヒーを持って行きました。
ただ安らかで居てくれるように、杏梨のそばで出来ることは必ずしますと、勝手ながらパパに伝えました。
あの日から、何度も事故現場に訪れているという加害者からは、1度も献花やお供え物はありませんでした。
保身の為に嘘をつき、弔う事すら怠る人間は一体どう言う人間なんだろうと、今でも唇を噛み締めるような気持ちです。
あの日から私は非常に感情的ではあると自覚はしていますが、毎日どんなに冷静に考え直しても、
遺族の求める通り加害者には厳罰を求めます。
だって、嘘で、殺人が罷り通るなら、法律もクソもないと思うからです。
罪は罪、人を殺めてしまった人。
事故はもちろん、故意ではないかもしれません。
でも、その後の偽証や、遺族の気持ちを無視するような行動が許されるなら、
法律というもの自体が、正義を果たす為の物ではなくただ、加害者を守るものになってしまうからです。
自分の父親が、母親が、兄弟が、娘や息子が、甥や姪が、自分の大切に思う人が
もしも同じ目にあったら、他人事と思う前に想像して頂きたいのです。
そしてそれを、遙かに上回るであろう辛く、厳しい状況の中でずっと行動を起こし、真実を求め伝えてきた遺族に尊敬と敬意を心から、
そして、遺族の気持ちや、確固たる事実が確実に判事や、世間の目に映るように祈ります。
そして何より、パパがあの日から、安らかであるようにと、毎日祈ります。